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2006年08月26日

何の集まりですか?・・・

「お父さん、早よ来て。鳥の大群や。」 ちょっと裏返った声で子供が呼ぶので家の表に出てみたら、子供が指さす先には、まるでヒッチコックのスリラー映画の名作「鳥」の一場面を髣髴させる光景が・・・。
家のすぐ前にある電柱と電線に群がっていたのは椋鳥(むくどり)でした。この鳥は普段、家のまわりの梅畑で虫類を捕るために飛び回っているのをよく見かけるので別に珍しくありませんが、いくら益鳥といえども、この様にたくさんのかたまりで見ると少し薄気味悪ささえ感じます。

昨年だったでしょうか?、東京都内の何処かの河川にボラの大群が押し寄せて、そろって口をパクパクしているニュース画面に、私、少し虫酸が走る感覚にとらわれました。しかし、何故こんな風に、ひと処に群集した夥しい数の動物(それも一種類の)を目にすると、鳥肌が立ったり、すぐに天変地異だとか、何か不吉なことの起きる前兆に結びつけて気味悪がったりするんでしょうか?
同じように群がっていても、それが花や草木ならばその美しさに感動さえ覚えるのに。
本当に人間の感性って複雑でおもしろいと思います。
まあ、この椋鳥達もきっとおなかがいっぱいになって、みんなで集まって一休みしていただけなのかも知れないし、勝手な詮索はやめて動物達の行動を無闇に気味悪がるのはやめにします。
でも、森羅万象の息づかいには常に敏感でいたいですけどね。

※写真は8月17日夕刻に撮影。その5日後も同じ様な光景が見られました。


2006年08月21日

ゲンゴロウブナを釣ったこと

なんだか夏休みの宿題にされた作文の題名のようなタイトルですなあ。
ところで私、本当にゲンゴロウブナを釣り上げたことがあるんです。 小学校五年生の春か夏の頃のことでした。その春に転校してきた中村君に誘われて、今まで自分が行ったことのなかった森の中にある池で一、二度釣りをしました。その時は中村君にばかりあたりがきて、ちょっとくやしい思いをしたので、ある日自分一人だけでその池に釣行したのです。 竿は子供用の安い二本継ぎの竹製、テグスは家にあった適当なやつ、おもりは絵の具が入っていたチューブを板鉛の代わりに使い、もちろん針とウキは買ったものですがずっと前から使っているので、だいぶ色も変わっていたかと思う。
家の台所で母に内緒でメリケン粉を水で練ってだんごエサを作り、ブリキのバケツを持ってその池に着いた時にはひとりだったこともあって、うれしさと期待と、そして少し恐ろしさが混じって妙にドキドキしたものです。釣り始めて十分もしないうちにその大物は掛かりました。その魚体は子供の自分にとっては気味が悪いくらいに大きく見えて、針をはずす時も少し手が震えました。水を入れたバケツに魚を移すとすぐに道具をかたづけて家に急ぎました。
となりの家のおっちゃんに見せたら「ゲンゴロウやな」と言われ、測ったら30㎝ありました。家では飼うことができないので、そのおっちゃんの家にある鯉を飼っている泉水に入れさせてもらいました。
その後フナはどうなったかは記憶にありませんが、その時の胸の高鳴りは今も忘れられません。思えば昔は本当にシンプルな釣りを楽しみ、またシンプルに喜べたんだなあと懐かしく思い出しました。

※写真は自宅近くのため池。鯉に鮒、ウシガエルと亀に水鳥、トンボにアメンボ。いっぱいいます。

2006年08月16日

勇気をだしてつかんでごらん

先日の朝刊に、「近頃はカブト虫やくわがた虫などに興味はあるものの、恐くてつかむことの出来ない子供が増えている。」そんな記事が載ってました。身近に野山がある田舎の子供達ならそんな事も無いのでしょうが、街なかの店で売られているものや、どんなにリアルに見えても所詮バーチャルの世界で脳が感じただけの架空の虫としか接したことがない都会の子供達ならそうかもしれないなあと思います。そしてまた「虫を触れない原因のひとつとして子供達が潔癖症になりつつあり、自分以外の生き物は汚いものと感じているのでは?」とも書かれていました。
なるほどなあと感心している場合ではないのですが、遊びで釣りをする若い人のなかにもそれに似たようなことが起きているようで、例えばエサにするゴガイ類は気持ち悪くて触れないだとか、自分が釣り上げた魚でさえピクピク動くのが恐くて他人に釣り針をはずしてもらったりだとか、一人前の格好をしたいい大人がそんなことをするのを見ると、こっちが「超キモ~イ」と言いたくなります。 まあそのような人達にすれば余暇を少しでも自然の中で遊びたいということで、数あるレジャーの中から釣りを選んでくださっているのですから、私どもにとっては有り難いことなのですが。

「もっと自然とふれあおう」なーんて口ではさらっと言えても、自然の中で遭う未知の生物は刺したり、咬んだり、かぶれたりと数え切れないほどの危険があるのが当たり前で、それに対する人間の本能としての恐れや警戒心のあらわれは当然なことなんだろうけど。
とにかく子供達の無邪気な好奇心に無闇に不潔だとか危ないからとかの理由で行動を制限せずに、本物の感触や反応を覚えさせることが人間の成長時にはとても大切な事だと思うんですがねえ。

※写真は樹液に夢中のノコギリクワガタ。ゴキブリではありません。


2006年08月12日

灼熱の道、車列はつづく

陽炎(かげろう)が立ち昇る熱い道路には、お盆休みで故郷に向かう車の群れが長い行列を成しています。 ノロノロと進む車の窓の奥には嬉しそうにはしゃぐ子供や、ちょっとおつかれめの母親らしき女性や、お茶の入ったペットボトルを口に運びながら運転をするお父さん達の姿が見えます。
我が社はちょうど国道に面しているため、盆や正月、それに季節ごとの連休となるといつもこの様な状況を横目で見ながら私どもは仕事をしています。じつは、我が社の仕事(釣り餌製造業)は他のサービス産業と同じく連休日にはかえって忙しくなり、社員の殆どはカレンダーどおりのお休みをいただくことはありません。そして大事な書入れ時でもあるこれらの連休日のお天気が穏やかであることをひたすら祈っているのです。
私も入社当初は人並みに休暇を取ってみたいと、多少うらめしく思ったものですが、それもしばらくする内に観念して、何処へ行っても人と車だらけの休日よりも平日にゆったりと休みを取る方がいいなと思い改めるようになりました。ただ、今でも自分の家族には申し訳なく思っていますが・・。

過ぎてしまえばお盆も学校の夏休みもあっという間に終わったなあと感じたりするんでしょうが、毎日毎日こうも照りつけられると早く秋にならないかなあとこぼしつつ、ふた月先のカレンダーをめくって紅葉した山々の写真をながめては軽いため息をついています。

※写真は切目崎(きりめざき)に沈みゆく太陽。この時間になるとほっとしますねえ。

2006年08月09日

のびのびと遊ばしてやりたいよなあ

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ことは往々にしてあることなので、個人も社会全体も物事に対する油断、つまり気の緩みには充分気を付けなくてはならないと思います。特にそれが人命に関わるような虞(おそれ)がある場合には二重三重の安全確保をするのは当然の事だと思います。しかし、世の中にはこれで絶対大丈夫だとか完全無欠の安全や安心などは無いことは皆さんもご存知のはずでしょう。
まあ、辛うじて昭和の時代までは安全な学校、安全な通学路、安心して遊べる公園、そして安全な乗り物などと社会通念上その安全性なるものを疑うことはあまり無かったと思うのですが?・・。こうなると日本でも遅まきながら幼少時の子供にも「やすやすと手に入れることのできる安全や安心なんかは無いんだよ。」と教え込む必要があるのではと考えたりします。
先日、起きてしまった市営プールでの痛ましい事故は管理者のずさんさと怠慢が原因ですが、あくまでも事故の未然防止の意味で何処にでも潜んでいる危険について、大人は子供達にもっと強く伝えてやるべきだと改めて思いました。 たとえそれが子供達の夢を壊すことになろうとも、人間がこの世で生き抜いて行く術(すべ)としてひとつひとつ授けてやらなければと思うのです。その上で子供らは自分で自分の身を守りながら好きな遊びに興じる。釣りも、水泳も、虫採りも、公園での遊びもすべて何らかの危険と背中合わせでやるものなんだよと、他人がどう言っても自分で安全を確かめなけりゃだめなんだよと。そして安全な場所で安心して遊ぶ権利とともに自分で自分を守る義務もあることをしっかりと教えてやるべきだと思うのです。 ただ、今朝聞いた全国の学校関係のプール約700カ所近くをしばらく使用中止するというニュースには、いくら安全の点検と確認の為とはいえ、それこそ海や川に比べて安全性の高い泳ぎ場所を子供達から取り上げてしまうのは、ちよっと行き過ぎではないのかと思ったのですが。
「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」でなければよいのですがね。

※写真は甲羅に首を引っ込めて身を守る亀さん。いつもの散歩道で出会う。


2006年08月07日

蝉時雨に想う

「猛烈」などと言う強い語感の文字は安易に用いるべきではないと私は思うのですが、長かった梅雨が明けた後の連日の暑さには、無意識のうちにもつい使ってしまうくらい、日中は何処も此処も猛烈に灼けついています。そこへ追い打ちをかけるような粘着質の蝉の声。
冬の凛とした空気が好きな私にとっては、その蝉の声のかたまりが何だか暑い空気の壁か、熱を発する屏風が自分のそばにあるように感じられるのです。 先月、あれほど疎ましかった長雨でしたが、今じゃたとえ10分でもいいから灼けたコンクリートを冷ましてくれたらなんて、またまた勝手なことを口にしながら家の前に打ち水をして暑さを凌いでいる日々です。
ただいつもこの時期想うのは広島、長崎の事。惨事の犠牲になられた方々に思い至ると、我が気ままなるほんの僅かな暑さに向けたつぶやきなどは、蝉時雨のなかに紛れ込んで消えてしまいます。
尊きいのちを受け継いだ我々は、たとえどんなに厳しい夏の暑さの中でも一所懸命に生きて行かなければならない。そう思いを新たにした昨日8月6日、日曜日の私なのでした。

※写真は例のごとく夕刻の散歩道で見た紅葉の始まった櫨(ハゼ)の木。

2006年08月04日

夏の里山で

夏は様々ないきものを目にする時期です。 帰宅後、夕涼みがてら小学5年生の次男と犬を連れて近くの里山を散歩すると、今の時期よく見られるのはトンボと蝶とセミの仲間達。 特にトンボなどは個々の名前には明るくありませんが、その種類の多さには改めて驚かされます。
胴体部分が赤いのが赤トンボ、同じく水色と黒のツートーンはシオカラトンボ、鉛筆の芯のように細い糸トンボ、貫禄のあるヤンマ類などとその程度の見分け方なら私にも出来るのですが・・・。
昆虫学者の先生方からは「トンデモナイヤツ」とお叱りを受けるでしょうが、自分の子供にはそのようにして適当につけた名前を教えていばっています。うちの子供は昆虫マニアではないので、今のところは私の言葉を信じているようですが・・・。
しかし同じ昆虫でもカブト虫やクワガタ虫となると話は違って、彼は一転もの知り顔になって私の聞いたことのない名前を並べ立てはじめます。たぶん昨年流行った昆虫の対戦ゲームの影響でしょうが、やたらに長いカタカナ語感のそれらの名前に、「そんなん ここらにはおらんで」とつぶやきながら、日頃チェックしているクヌギの太枝にいたのこぎりクワガタをそっと手でつまみあげる。
息子は、一昨年前までは捕まえた虫を家で飼っていましたが、去年の夏からは自然のなかで見せてくれるその生態を楽しむだけにして、捕まえた後もすぐ元の場所に戻してやっています。それが大物だったりするとわずかに葛藤の表情を浮かべつつも、リリースしています。 彼は彼なりに納得しているようです。 
過去、世話を怠って死なせてしまったことを悔悟したんでしょうな。
夏は生き物を、特に人間の子供を生長させてくれる季節でもあるんですね。

※写真は散歩途中に見つけたイトトンボの一種?(はずかしながら学名までは知りません。)

2006年08月01日

「七夕さん」なんだけどなあ・・・

昨晩は旧暦の七月七日、つまり七夕さんだったので、ちょっと遅い夕食を頂いた後、星空を視るために家の表に出てみました。
夕方頃から曇り空でしたのでさほど期待はしてなかったのですが、その時はなんとか晴れ間に当たったようで、北斗七星がみえる。ただ、肝心の天の川が見えません。そうなんです、自分の立っている場所が明るすぎるのです。 西の空には半月まであとわずかとなった上弦の月がやや雲に隠れていて、星明かりの邪魔をするほどでもなかったのですが、ちょうど我が家の真ん前に近頃設けられた外灯の明るい光が夜空の表情を消しているのです。
拙宅は町内でもわりと山間の梅畑のなかにポツンと世間から逃げるようにあるのですが、隅々まで行き届いた町の行政のおかげで防犯のためとかで付けてくださったその明かりは、我が家専用となっている次第です。おかげさまで夜、家の周りを散歩する時も明るい足元のおかげで、ムカデを踏んだりマムシを用心したりする心配が無くなりました。
それは有り難い事なのですが、どうもこう風情というものが無くなってしまったようで、飛び交うホタルの光はぼやけるわ、裸でうろうろ出来ないわと別のワガママな悩みが出てきたのです。 
最近テレビCMで人工衛星から見た地球の夜の姿が映し出されていますが日本を含む文明先進国のエリアの明るさは、夜という生物学的にみて大切な時間をもう少し取り戻した方が、健全な営みができるのではと思うくらい行き過ぎているように感じるのです。 
というわけで結局、彦星さまも織り姫さまも何処にいるのやら分からずじまいなのでした。

※写真は見えなかった天の川の代わりにみなべ川の一風景をお届けします。